死と向き合うのはごく当たり前のこと:2021年5月8日<ひとり道中、しまい旅>
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2021年 5月 -日 更新
2021年 5月 8日 はじまり
死と向き合うのはごく当たり前のこと
「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」曽野綾子氏(84歳 2016年2月当時)発言にネットで「あなたからどうぞ」という古い記事(出典:J-CASTニュース:2016年2月2日)があった
この方、今もご健在で活躍中?で弁舌家らしい
●ここから以下は記事の抜粋●
「週刊ポスト」のインタビュー記事によると
曽野さんは「『いくらでも生きたい』は傲慢」「権利を『求め倒し』、医療を『使い倒し』、他人を『頼り倒す』ことは肯定されない」との持論を展開する。
この記事の前提には、1月24日付け産経新聞朝刊1面に掲載された曽野さんのコラム「小さな親切、大きなお世話」があった。90代の病人がドクターヘリによる救助を要請した話を持ち出し、「利己的とも思える行為」と批判。負傷の程度でけが人の治療に優先順位をつける行為「トリアージ」を例にしながら、「生きる機会や権利は若者に譲って当然だ」「ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本では改めてすべき」と主張した。また、ドクターヘリなど高度な医療サービスについても「法的に利用者の年齢制限を設けたらいい」と踏み込んでいる。
確実に来る死を覚悟し、さまざまな機会や権利を若者へ譲る。医療サービスを誰しもが平等に受けるのは難しい時代、高齢者は死と真正面から向き合わなければならない。曽野さんが訴えたかったのは、そんな独自の「生き方」だったと言えるが、曽野さん自身が高齢だったことからか、ネット上で即座に反発の声が巻き起こった。
15年2月、産経新聞上のコラムに記した「もう20~30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」との一文が、「アパルトヘイト」(人種隔離政策)容認と捉えられ、海外メディアに報じられたり、駐日南アフリカ共和国大使が産経新聞に抗議したりする事態に発展。
また、15年7月、岩手県の中学男子生徒がいじめを苦に自殺した問題では、「自殺した被害者は、同級生に暗い記憶を残したという点で、彼自身がいじめる側にも立ってしまった」と同年9月11日発売の「ポスト」(9月18日号)に語り、問題視された。
●記事抜粋ここまで●
世界の多くのムラの排他性攻撃性に差別といわず人種の棲み分けには騒ぎ立てるのもふしぎだ
よほど頭の中で都合よく切り分けているのだろう
人間はそういうものだ
いじめ自殺に関していえば曽野綾子氏の持論を展開すれば多くの自殺にもその考えがあてはまるのだろう、
そもそも”いじめる”という表現が適切でなく排除や攻撃などの暴力行為ではないか
いじめという矮小化が問題をゆがませているように思えてならない
曽野綾子氏の発言は過激で奔放かもしれないが
死と向き合うのはごく当たり前のこと
どうもこの国の人間はそれをことさら忌避しているように見えてならない
あえて言うなら、「適当な時期」というのがあいまいなさじ加減に感じる
さて「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」とした曽野綾子氏はその発言に沿った生き方をしているのだろうか
医療資源もサービスも極力使わず、身内の死に際してもそうであったか
誰か検証してくれないだろうか
ご自身が検証するのが一番よいかもしれないが
(2021年5月8日)